みんな同じこの空の下 はーとあーと倶楽部原画展

 

みんな同じこの空の下

 

ショッピングセンターの片隅で今日も重度の障害を持つ子どもの母親が働いている。

 

暑い炎天下のバス停に、仕事帰りのダウン症の青年が黙って

バスを待っている。

 

寝たきりの子どもを持ち、うまくいくときもあれば、

笑えない日もあると言いながら、それでも優しさゆえに笑う人がいる。

癌の手術をして命の長さを測り、詩集を持ち凛と佇む老婦人がいる。

薬局で人々を見ていると、悲しみの数は限りなくある。

 

容赦なくある、と知る。

 

笑う人々が一人になったときに、心の奥にふっと降りてくる、そういう他者とは共有できない種類の悲しみがある。

私たちは波の狭間に輝いて署名を残さず消えてゆく命とタゴールは言ったけれど、

生々流転する命の中に私たちはこころというものを持ってしまった。

 

こころは悲しみを知り、孤独を知る。

 

だからこそ、彼らの絵をみんなに届けたい。

病み、疲れた人がいるのなら、彼らの絵を届けたい。

それはきっとふっと虚脱した心に、命の奥にある泉のような光を与えてくれる。

例え、悲しみを共有できなくても、ただ皆同じこの空の下にいる、

そのことの限りなき優しさを伝えたい。

「続けること」

 

今はそれが一番大切なこと。

 

はーとあーと倶楽部のお母さんたちは、そう言われた。

 

コロナの流行が繰り返される中、はーとあーと倶楽部も集まれないこともあった。

 

多くの障害施設が外出や面会や活動の制限がかかっている。

 

だけれど、リンドグレーンの「喜びの木」という絵本の中で、

両親を失い、村の仕事ができない人々の荒れ果てた小屋で過ごすことになった少女が言った。

 

「菩提樹とナイチンゲールが人生には必要なの」

 

苦しい現実や悲しみの中で

「うつくしいもの」

が人が生きてゆくためには絶対に必要だと。

 

きっとコロナの中でも、私たちは手放してはいけないものがある。

そういう気がしている。

はーとあーとのお母さんたちは、いつも大切なことに、すぐにたどり着く。

失いたくないもの、手放してはいけないものは何か。

 

彼らの心の交流や、光ある作品を創作するあの明るいエネルギーの生まれる場所。

そのお母さんたちの想いで、今年もはーとあーとは作品を創作することができた。

暑い夏の日、公民館の一室に集まったはーとあーとの場は

明るい光に満ちた笑いに満ちていた。

 

西村君と馬場君!

 

私の大好きなコンビも相変わらずきらきらとし輝きを放ちながら創作していた。

 

二人はこれまでのお互いの思い出話を沢山話してくれた。

 

バトミントンの全国大会で入賞したこと。そのために精いっぱいの努力をしたこと。

 

純粋な心と向上心、そして努力をおこたらない二人は本当に眩しかった。

 

西村君は優しいユーモアに満ちているけれど、創作の時の真剣さは、ふっと息を止めて見入ってしまう、

芸術の生まれる時に出くわした感覚がある。

そしてさっちゃんも溢れるユーモアで、様々な劇を演じてくれ、私は笑いっぱなしだった。

私たちが小難しい顔をして眉間に皺を寄せて失ってゆくものを、

彼らは、贅沢に潤沢に失っていない。

そして溢れんばかりのホスピタリティで、私たちに惜しげもなく喜びを与えてくれた。

こんなに楽しかったのは、こんなに笑ったのはいつぶりだろう?

そして、みんなの作品ができ、薬局への搬入が終わり、

驚きのサプライズが待っていた。

 

病に襲われ、集まりにはこれなかったけれど、ずっと彼が再び絵を描くのを願っていた。

 

私の敬愛する望君の絵に会えた。

再生の絵。

 

森の中で大きな木の倒木の下から小さな芽がのぞいているのに出くわす時がある。

 

光が差し込む森の中、

その萌え色の柔らかな新芽に、言葉をなくし佇むように、

 

望君の小さな新芽を見て、静かな涙が出た。

 きっと今日も、アサヒ薬局で出会うそれぞれの人は、

それぞれの場所で、日々を生きている。

 

彼らに、はーとあーとのメンバーの描いた絵の優しさが、光のように降り注ぐのが見える。

 

みんな同じこの空の下

 

 

私たちは歩き続ける